別冊へびいちご新聞「猫よ!」2号

猫よ!2号

もくじ

・へびいちご宣言
・スタイ猫百景(messie)
・カワイイ猫様スタイを作ろう(messie)
・猫様の世界
・けこのぬりえ(keco)
・まえあし同盟
・月刊「フー」表紙
・にゃんぱらり爆弾の作り方
・恐怖絵「ネコがせめてきたぞっ」(6歳の幼女)
・「三毛太のこと」
・編集後記

責任編集:岡本まくず

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別冊へびいちご新聞「猫よ!」2号
できました。

印刷上の関係で、ごく少部数のみを作っております。(30部ほど)
体調諸々の調子が良ければもう少し増刷するかも。

個人的にお渡ししているものもありますが、
店舗等への配布はこれからです。

お問合せ、ご希望のある方はメールにてご連絡ください。
ゆっくりとですが、お返事します。
makuzu1979☆gmail.com

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追記:さらに30部増刷しました。(2011.12.12.)

東京・王子の丸山商店さんに8部送らせていただきました。
東京・中野のタコシェさんにも10部送らせていただきます。

昨今のこと

まさかこんなにアレルギー反応があるとは思わなかった。
キウイフルーツを食べてしまって、その後軽く運動して、体の調子が半日おかしかった。
蕎麦アレルギーのショック症状と同じような吐き気、呼吸困難。
「茶のしずく」石けんの余波が広がる中で、食物アレルギーの困難さを思い知る。
こないだ観たテレビの特集で、卵アレルギーの男の子が、治療するために卵を食べなくちゃいけないシーンが写っていた。彼は「怖い、いやだ」と泣き出したのだが、その気持ちはよくわかる。


朝の連ドラ「カーネーション」がなかなかよいな、と思う。人間臭くて。


いよいよ冬期うつに入ってしまったので、色んなことを前向きに諦め中。
もう半年は冬眠状態で過ごすと思う。
虚脱感、倦怠感、軽い抑うつ症状。過眠。
炭水化物や糖分、脂分の多いものを好んで食べるようになるのはPMSに似てるけど、あれだけ振り回されたPMSPMDDは、三十路を超えるとめっきり治まってしまった。症状の出方が変わっただけかもしれないけれど。
妙にイライラしたり攻撃的になったりするあれ、なんだったんだ。
まったく、拍子抜けする。

腰の方は、長らく飲んで来たロキソニンを止めて、リリカにしたら、驚くほど体が軽くなったように感じる。
ビリビリと腰や脚に響いていつも顔をしかめていた神経痛がなくなったのは幸い。

くみとり式

自らが弱者になって、初めてその気持ちに寄り添える。
そんなことを痛感する日々。

自分の気持ちがうまく言えなくて、ただ泣くことしかできなかった時に
「何か言いたいことがあるのか?」
と聞かれたことを思い出す。

今思えば、ありがたい言葉だった。

焦りや不安やもどかしさの茂みの中に、すっと光がさした瞬間だった。

自分は、幸いにして、今はこうやって気持ちを言葉を発することもできるが、
それができなかった時期もあった。
気持ちが表現できないと、エネルギーがむやみに内や外に向かってしまって辛かった。
周囲を破壊しながら、そのくせ中心で滅茶滅茶に傷ついているのは、自分なのだ。
未来なんてないと思ってた。未来のことを考えると恐怖に襲われた。
だけど、あの瞬間にも未来はあって、今に続いている。
不幸を連鎖させてゆくやり方では、長く続かない。
少しは賢くなったはずだ。
七転八倒しながら、しぶとくやりたい。

想像力は、生きて行くために必要な知恵だ。
あの時かけてもらった言葉の奥には、誰かの行動の意図を汲み取ろうとする想像力があった。

余裕のある者は、その泉を涸らさないようにしておくのがよい。
きっとそれは、肌の弾力や水分を保持するのと、同じことではないのかな。

ギエム

子守りから開放されて、ほっと一息。
子守りモードの時は、全身全力でアピールする存在と常に向き合っていて
なるほど冷静な判断力を失うな、と後からブログなどを眺めていて思う。

さて、高校時代からいつか見たいと思っていたシルヴィ・ギエムボレロを観た。

幕が開いて、舞台の上にポージングを付けたまま止まって青白く浮かび上がったダンサーたち。その神秘に触れた時、全身からため息が漏れる。

稚拙な表現になってしまうが、それは子どもの頃に憧れた世界で、オルゴールの中に、スノードームの中に、クリスマスの飾りの中にあった小宇宙だった。
バレエとは、すなわち、チャイコフスキークルミ割り人形であり白鳥の湖であり、白いチュチュであり、幼なじみのお母さんの持っていた、爪の剥がれそうに先っぽの硬いトウ・シューズであった。素材はサテン、その色は薄いサーモンピンクで、よそのうちのお母さんのブラジャー姿を思い浮かべた。自分の家でいつもくつろいでいる「母」とは違う、よそのお母さん。ピアノや応接間のある家に住んでいて、化粧台と水中花が似合う。母というより、大人の女性。ドキドキする。

それはまた、日東紅茶とブルボンのお菓子であり、レースのあしらわれた丸襟のシャツにエナメルのストラップシューズを履いた子どもであり、自分にとっては昭和の記憶だった。
どこにも存在しないヨーロッパの、時代もわからぬおとぎの話の世界が眼前に広がって、少しこそばゆい思いをする。

衣服のラインをなくした状態の人間を、こんなに一度に見ることはない。
温泉や銭湯で見る裸も、生活者のそれという感じでとても好ましいのだけれど、ストイックに鍛え上げられたダンサーの肉体は、揃ってかくも美しいものか。自分にない筋肉や、鋭角的な、あるいは優美な手や脚の動きを意識した。

一緒に踊っていたバレエ団の方々も素晴らしく贅沢だったが、ギエム独演の圧倒的なステージは、流石。
神がかっていて、生の舞台でこういうものが見たかったのだ、と方向性を強く刻み込む。
口当たりの良い砂糖細工ばかりじゃないんだ。表現に人生をかけた人がギリギリと心血を注いで、残った最後の一滴から何を感じるか知りたいんだ。
舞台が進むに連れて、そういうことを徐々に確認して行った。
台詞もなにもない世界は、ひとつひとつの動きを瞬間の記憶に留めておけなくて、肉体の軌跡だけが残像として残る。


後ろの席の男性は「シャーマニズムだ」と言っていた。
ロビーに出ると、「すごかったね」「キラキラしてたね」「これであと10年は仕事を頑張れるね」と女性連れが会話していた。
そういう、ライブ後の場の空気が変わって、ほんのり上気して暖かくなっている感じがとても好きだ。


ギエム、日本のことを好きでいてくれてありがとう。日本の惨事に心を傷めてくれてありがとう。
あれだけの存在に、応えられるような生き方をしたいと思った。

血がROCK

テレビをボヤーっと見てたら
パンクアレンジされたマイウェイの歌に合わせて
嵐のみなさんがポーズを決め決めしてるCMが流れた。
松潤が、せ、セクシーすぎるんですけど。
http://www.au.kddi.com/mirai/

革ジャンとオールバックでぴょんぴょん跳ねる美形の男の子ってどうなのよ。
かわいいじゃないか。
茶目っ気があって多いに結構。
実はパンクなファッションて、十代がやると華奢な上に内面も不安定で見てられないところがあって、でもおじさんになっちゃうと口ピから鎖を垂らして、なんてことは痛々しいので、ちょうど旬な大人の時期ですね、って思った。
このCMの松潤は、怯えたところがない顔だから好き。
トータス松本の顔も好きだったなって思い出した。

10年くらい前に、横浜のはずれの港のライブハウスに当時好きだった某バンドを観に行ったら、大型バイクに鋲付き革ジャンのお兄ちゃんたちがいっぱいいた。
その日見たライブの最後に、バンドのドラムの人が、客に向かって怒鳴ってた。
「ロックはこうじゃねえだろ!」
拳をグーにして(あるいは親指を立てたGOODなポーズだったかもしれない)振り上げるのはロックじゃないらしい。
そしていまだに、ロックのライブでどのように盛り上がるのが正しいのかよくわからないでいる。


寝る時に痛くて、でも開けたときの痛みとホールが完成するまでに費やした時間が勿体ないから軟骨位置のピアスが塞げないでいるアラサー女子より。

職場のアスベストが原因の中皮腫で闘病していた伯父が亡くなった。
去年の冬は癌で伯母が、今年は伯父が。
先日は友達のお父さんが。
他にも、あの方のご家族や、あの方のごきょうだいや。

生きてる以上、いつか亡くなるのは自明なんだけど
じゃあ場数を経てゆくと、少しは周囲の死や喪失というものに慣れたり、あるいは
心の中での落としどころがわかってしまうものなんだろうか。

深い喪失感は、10年経ってもまだ心の真ん中の奥当たりに眠ってて
いつか、たとえば思春期の失恋みたいな、
ほろ苦くて甘い感傷に変わってくれないかと思ってるんだけど
血を流しながらドクドクと臓物が迫り上がって来るような感覚も微かにあって
綺麗ないい思い出になんてならないのである。

人は生まれるとき、何を見るの。

人は死ぬとき、何を見るの。