冬マンダラ
ちょっと前のメモと、補足その他
バックアップに残っていたので。
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既に廃刊された、ある雑誌に載っていた、ある作家の言葉('98)
怒りも観念になっちゃうと、当事者じゃない人に向けられることが可能
あー、これわかる。感情の便秘とでも呼ぼうか。
不自由で気持ち悪いし、不健康。
冬のある日
今日は無理そうだ、と悟った朝は、体の怠さにかまけて
布団の中で掌をグーパーグーパーしている。
意思はあるのに動かないって面倒だ。
指一本動かすことが困難で、身体がバラバラになっていく感覚がある。
確実に脳味噌のどこかがやられている。
酷くなると、実際に頭の中がピリピリと痛い。
そんな時の自分は、他のことはできなくても、その感覚を知っている。
指は動かせないけれど、言葉は発さないけれど、
視ているし、聞いている。
論理的に観念を統合できないけれど、ぼんやりと、感じている。
そして繰り返し感じたことが蓄積されている。
やがて、このカプセルの中に入って身動きできない状態が、身体感覚になる。
言葉すら発せない、でも気持ちはある。
将来、例えば寝たきりになったり認知症になったりした時に、同じもどかしさを覚えるんじゃないかという気はしている。
たぶん、そうとうキツい。
例えばうちの祖父母。
晩年は耳が遠くなったり、認知症になっていたのだけれど、
彼等がぼんやりと幸福な世界に生きているんだと思い込もうとしていたことに気づく。周辺の人間の、傲慢で、押し付けがましくて、自分勝手な想いである。
そうあってほしいと願うことと、目の前にいる人の実際がイコールかどうかなんて、確かめられないのだ。
本人の感じる幸福の度合いが、過不足なく他者に伝わっているかどうかは、かなり疑わしい。
自分たちの生きる現実世界を、一緒に生きていないと思い込んでしまっていた。
気持ちも身体も、もう向こう側にいってしまう人、ってどこか便利な場所に気持ちを片付けてしまっていた。
でも、そうじゃない。
生きてるってことは、同じ土俵に立って生きてるってことだった。
何しろ怖くて、老いや、死や、病や、色んなところが変わってしまっても生きている目の前の相手の人格や本質をわかろうとはしなかった。
たまにしか会わない相手だったから、余計に。
忘れがちなことなので記録しておく。
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あとね
自身の経験則として
眠れない人と表情がなくなっている人は、「しんどい人」だ。