我が輩も猫であるから、

先週、NHKBSプレミアムで4夜連続シリーズ「おまえなしでは生きていけない 〜猫を愛した芸術家の物語〜」というのをやっていましたね。
内田百けん(もんがまえに月)の回で、その再現ドラマ付きの猫ばかっぷりな内容に思わず涙を浮かべてしまいました。猫がいなくなるとああなっちゃうんですよ。少し微笑ましい感じもしますが、あのペットロス状態は他人事じゃあないです。

猫をどれだけ「愛してしまった」か、そして猫にどれだけ「愛された」かが、人を見るときの指標になっている気もするこのごろ、あんな美しく愛らしく完璧な存在の生き物を創ってくれてありがとう神様!と世界創造の神様(どんな形なのかとんと見当がつきませんが)に感謝する毎日です。

ときに、夏目漱石の「我が輩は猫である」を久々に開いて序文に目を通してみたら、こんなことが書いてありました。(超意訳)

「この本の価値はわからないけれど、自分が書いたものが思うような形で世に出るのは、内容の如何にかかわらず嬉しい。このことは、出版する動機としては充分だ。」

「この本はしっかりした骨組みとかがなくて頭かシッポかわからないナマコみたいな文章で、一巻で消えてなくなってしまっても差し支えないし、そうなるかもしれない。だけど、また時間をみつけて原稿を続けるつもりだ。猫が生きている間はー猫が丈夫でいる間はー猫が気が向くときはーわたしもまた筆を執らねばならない。」

このスタンス、ぐっと来る。ぐっと来ました。
漱石先生、

また、猫の気が向くときに書きに来ます。