智恵子は東京に空が無いといふ
古く黴のにおいが鼻孔をさす田舎の小さな図書室で
中学生のわたしはゆっくりとページをめくっていた。
その校舎は10年前に放火で消失した。
誰がどのように寄贈したのかわからぬ人気のない小さな北向きの
山に挟まれた教室。
6年後、わたしはその本を再び手に取った。
なにもかもがわからなかった。
芸術というものがさっぱりわからなかった。
生きることがわからなかった。
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「千恵子抄」 高村光太郎
智恵子は東京に空が無いといふ、
ほんとの空が見たいといふ。
私は驚いて空を見る。
桜若葉の間に在るのは、
切つても切れない
むかしなじみのきれいな空だ。
高村千恵子の切り絵が好きだ。
夫・高村光太郎は知る人ぞ知る、著名な彫刻家である。
芸術家と芸術家のハレーション。
大きな才能が絡み合ったとき
狂気に押されてどちらかの精神、そして才能を潰す。
焼け付いた皮膚がヒリヒリと痛むような感覚があった。
かつてわたしの半分は、彼女であり、彼であった。
今のわたしにはどちらもいない。
それが虚無なのか自由なのかは
生き終えてみないとわからない。
光太郎の目から見るキノコは、造形としての、植物としてのキノコであっただろう。
千恵子の世界でのキノコは、自分の細胞と同じくらいに自然なものではなかったかと、そう思う。
「智恵子抄」は
見舞いの品とお花と果物と毎日の夕食を
大事に鋏で切り抜いた妻を
どんなに愛し、
どれだけ世界を共有できなかったか、という
寂寞の詩である。
フレンチ平原に茸(きのこ)は生えても
智恵子の遊びに変りはない。