こないだ行った新宿の画廊の帰りから頭と心の様子がおかしい。

帰宅中、「もう絵が描けない」とメモ帳に走り書きした。泣いてしまったし、ずっと泣きそうだった。
そんな気持ちは10年振りだった。
筆を折るのが二回目になると、人生における定例行事なのかという気さえしてくる。

家に就き、ドアを閉めたときに思い出したのが、「甲斐庄楠音」(かいのしょうただおと)という日本画家のこと。
高校時代に岡山は笠岡の竹喬美術館で見たことがある。
岩井志麻子の「ぼっけえ、きょうてえ」の表紙絵の女性画というと、ピンと来る人も多いと思う。

彼が4年間筆を握らなかった間に、絵が描けなくなってしまったというエピソードを、それはそれはおそろしく思い、心に刻んだ。
ドアを閉めると同時に、ふいに、その忘れていた強迫観念が襲って来た。

なんだかよくわからなくて、同じ絵描きであるひとに相談してみたところ、
「それは頭が混線してるんだよ」と。
「俺もグループ展は苦手だから、わかるよ」と言われた。

ああ、わたしだけじゃなかったか。

山のように積み上げられたポートフォリオと、「我が、我が」と主張してくるジャンルのバラバラな作品群の中で、それでも会話したかった絵があるから局所集中的に神経を絞ったんだけど、やっぱり雑念が周りから入って来るのね。

ああ、これ好きじゃないなあというものがごく近くにあると、どうしてもその「好きじゃないものの側にいた」残像が体の周りに残ってしまって、結果、毒に当てられたような状態で帰宅してしまう。

その日は朝まで和の文様や風俗の調べものをしながら、ヒトガタのイラストを描いた。

次の日はインターネットの工事業者が家に入ったので、緊張した。
あきらかに普通じゃないものが積み上げられた乱雑な部屋で、製本作業や消しゴムかけをした。
寒い朝で、業者のおじさんとわたしは、どちらも始終鼻をすすっていた。


その夜、人との待ち合わせをキャンセルした。


次の夜、予約していたイベントに行けなかった。


「きみは巫女体質だから、憑き物を落としてやらないと」と言われる。

情報、状況、実に影響されやすい。
意図して光や音をシャットダウンしている。

テレビ買えば?と何度も言われるが、今はちっとも見る気がしない。


身辺から不浄なものを一掃してしまいたい。

不要品始め、花粉やハウスダストまで。