河口龍夫展 言葉・時間・生命
東京国立近代美術館で行われていた「河口龍夫展 言葉・時間・生命」に行って来た。
twitterでも専用アカウントで中継が行われていた。
http://twitter.com/KawaguchiTatsuo
入り口を入ったらすぐ、見慣れたシルエット(白いふわふわの長髪)が見えたので、「あ、ご本人がいるー、おはなししたい!」と思って、人の輪がとぎれるのを待った。
河口先生に「筑波時代の教え子ですよ」って挨拶して、自主制作しているミニコミ・フリーペーパーの「へびいちご新聞」パックを渡した。
周りに2人くらい、先生本人に話したがってそうな人がいたので、なんとなく話しかけてみたら、ふたりとも筑波出身者だった。
こちらにも渡す。
片方が彫刻家の女性で、国立新美術館での展示に出品しているという。
大学の講師もしている。 共通の知人が何人かいた。
もう片方が男性、経済学の学者。
河口先生はさすがに高齢で、でも口は達者で 、相変わらず独特の存在感を醸し出していた。
最近わたしが考えていることをバーーーーとしゃべって、芸術と世界平和の可能性についての持論を伝えた。
「いいこと言うじゃない」って言われたので、軸は間違っていないんだと今の活動、これから広げてゆきたい活動に背を押していただいた。
作品に関して知りたいことがあったから先生の周りが空けばどんどん聞いて、教えてもらったりした。
そして、種子のモチーフについて聞く。
「あれは咲かないんですか」のようなこと。
「見えない方がね、いいんだよ」
返って来た答えに、やはり、「うん、そうだ。」と思えた。
咲いた花を描く絵描きなんてゴロゴロいるでしょう。
わかりやすく鮮やかに 花は咲くし綺麗だし。
見えるものと見えないものについて考えている。
見えないものの可能性について考えている。
単に視覚の問題だけではない。
嗅覚、触覚、感情、信仰、願い、祈り、そして、第六感。
見えないものを感じさせる文章、絵、音。
鑑賞者にイマジネーションを遊ばせる余地を用意すること。
作品が作家の手を離れたあと、
見る側のイマジネーションに委ねられるかという問題がひとつ。
空間や時間と共存しないと
インスタレーション作品は作品足り得ない。
それと、自然に造形を委ねたもの。
大きな画布に不思議な文様がついたものが並ぶ空間。
画材を見たら、雨水、とか描いてあったので、これはひょっとして、と思って
フロアの真ん中にある金属の棒、それに巻き付けられた布を見る。
金属の棒を中心に画布を巻き、雨水に晒して錆びをつけたものかと思われる。
キャンバスっていっても、筆で絵の具を垂らしてるわけじゃないんだよね。
描いたのは自然の力。
用意したのは人間、でも描いたのは自然。
彼の作品には種子を扱ったモチーフが多く登場する。
チェルノブイリの事故以来の作品、放射能を遮断するという鉛を使用した作品が多くある。
鉛で、様々な種子をくるんでしまう。
その姿は未来へ生命を残す核シェルターやタイムカプセルのようにも思えるし、光、水、空気を遮断して発芽を阻害している拘束具のようにも思える。
鉛でできた哺乳瓶は、なんだか見てはいけないものを見たような気になった。
中世ヨーロッパの拷問具を思い出してしまった。
反対に、近年の作品には蜜蝋と自然のモチーフの共存が見受けられる。
これは、熱があったら溶けちゃうよね。 もろくて手を触れることもできなさそう。(もちろん美術館ですから手は触れていません。)
鉛と蜜蝋。
経済学者に解説しながらアートの展示を巡るというのは人生初の体験だったのだけれど、不思議な感性の方で、なかなかおもしろい体験だった。
山道は、昇る道と下る道の見え方、感じ方が違う。
展覧会場で人がだいぶんはけたころ、どうしてもやってみたかった体験コーナーに戻るために順路を逆流した。
すると、景色がまったく違うことに気づいた。
真っ暗な空間の中で画用紙に絵を描くという体験をした。
頼りになるのは紙と鉛筆がこすれる音。
なんせなにが画面上に出るのかわからない。
だから音楽家よろしく、気持ちいい音を出そうと腕を大きく振ったり、ぐるぐる回したりして線を描いた。
暗闇に2分程いると、上から闇がずーんと降りて来る不思議な体感が起こった。
「頭の先から顎のあたりまで、暗闇のヘルメットに包まれているな」
そう感じた。
明かりがついて画面を見たら、想像してたほど思い切った画面にはなっていなかった。
わたしは日々全力で画面にぶつかっていない証拠を晒された気になった。
だいじなことがいくつかある。
とにかくね、続けること。
ぼーっとしてて会話全部は覚えてないんだけど、続けることね。
「作るのは苦しいです」
「苦しいけれど、その中に楽しみがあるでしょ?」
そうそう、そういうこと。
でっかい作品作りたいな。
あれだけのものをね、広げられるようになるまで
何十年かかるかな。
わたしがへびいちご新聞を渡しても、「ありがとうございます」って。
人生の先輩としてはかなわないけれど、
ものの作り手としては対等な目線で話せるようになって来たと思う。
最後、ずらっと並んだ美術館のスタッフの前でお礼を言って、たくさん笑顔でお辞儀をしていた姿が、たまらなくかっこよかったです。
ありがとうってたくさん言えるひとになりたい。
ありがとうをたくさんいったら、気持ちいいだろうな。
帰宅途上で買い物に寄った新宿が
消費物と消費者にまみれていて、
芯の通ったなにかを見ることができなくて、
ファッションビルとおしゃれカフェ、そこに集う若い子の
判で押したようなはやりの髪型、お化粧、中身の無い会話、、、
「あながたは綺麗だ、でもそれだけだ」
と、たくさんたくさん感じてしまった。
現代美術が現代のことを語らなくてどうする。
現代人が現代と対峙しなくてどうする。
そんな思いを胸に、学びたい、作りたい、発表したいのうずうずの心がまた動くのを感じた。
わたしは廃墟写真や歴史的事故、事件や戦争のバックボーンを調べるのが癖だ。
正視に耐えられないことも多々あるが、真実が知りたい。
石棺はいま、どうなっているのだろう。
ゴーストタウン - チェルノブイリの写真
http://www.geocities.jp/elena_ride/