このエントリーに筆者名は要らんね。

間接的にお世話になった方のお子さんが十代で亡くなったと聞く。
死因と御遺族のことをお聞きし、やるせなくて朝から泣いた。

例えば、「失われた10年」なんていう冷笑まじりの言葉で安易に世を知ったような振りをしないよう気をつけようと、本能的に思った。

世界経済と子の命は直接は関係ない。
だけど、同時代に存在したはずのだれかの時間まで巻き込んでロストしたことにはしたくないんだコノヤロウ、と思ったのだった。

10年〜ものごころついてからの人生まる一人分。
なかったことになんてできない。

泣いたところで還っては来ない命だけれど、会ったことのない子とその家族のことを考えて泣いた人間がこの世にいることを記しておく。

「どうせ〜」とか「〜に決まってる」とか
活動範囲や思考範囲を自ら限定したり卑下したりもしないようにしたいね。
そんな大人はつまらない。

世界一不幸な気分になってしまう癖や病気もどっか行ってしまえ。

細胞の生命活動に適した熱さを持ちたい。

地球の反対側で行われた人命救助を喜んだ。
私の体はまだ大丈夫。
泣いたというのも健全な反応だろう。
心が動かないときは泣きもしない。

ただただ、家族を亡くした人間にはその後の多くの時間がひどく辛いことで、その間は色んなことをうまく伝えられない状態にいるんだ、という理解を周知させることは必要だと思ったよ。

ご家族の方が泣き切る前に泣いてしまってごめんね、という気持ちもある。
泣くといくらかはすっきりするからね。
そしてすっきり出来ないときは泣けないからね。
だから泣くときは少し遠くにいるんだろうね。
タスクがあるということは救いになるんだね。

自分のタスクが見つからなかったり見失ってしまう故の宙ぶらりんの辛さもまた知っているから、支え合って生きることをしっかりしなくてはとも思うよ。

大丈夫だよって自信を持ってうまく言えなくてごめんよ。
ただ、大丈夫であってほしいと隣で思っている人たちはいるってことが書きたかった。