色彩やら

ふと思い立って某資格の勉強をしているのだけれど、
(そしてそれはとても珍しいことなのだけれど)
色彩の辿って来た文化がとても興味深い。
西洋絵画史においては、中世、ルネサンス、近代絵画と時代を下るに従い、色彩のあり方の方向性が「独自価値」から「描写価値」へ、またしても「独自価値」へ、と変遷して来た。

物体の属性としての「固有色」を否定し、すべてを変化してやまない「現象色」に置き換えた

印象派の説明としては当たり前の一文だけど、今一度噛み締めると味わい深い運動だ。
まるで、オーロラや虹の実態を捉えようとした人かのようだ。

自分の視力も万全ではないし、視界も歪むとわかった今、
せめて画面上には心の目で見た色を再現したいものなのだと改めて感じる。


理論を実践するために作られた作品は、どうにも窮屈で。
それとも、理論を説明された途端に窮屈に思えるのか。
理論を凌駕する力量を持たない作品なのか。
自分の脳のスペックが低いのか。(これは大いにあり得る)

自分は、受験に必要な平面構成(ポスターカラーで平面をべた塗り)を練習する時に、明度、彩度、色の組み合わせの持つイメージやらマンセルの色立体を一通り学習したつもりである。

しかし一方で、油彩や水彩画を描く時は、ある時期から極めて感覚的に色を置いて来た。

さらに遡って考えると、浮世絵の真似や漫画絵やイラストレーションと割り切ったものに関しては、線と面、色、空間、どれをとっても2次元と3次元がごっちゃになった不可思議なものを生んで来た。
わたしに限らず、大半の日本人がこの作業をやってのけているんじゃないのか。それも、きわめて皮膚感覚に近く、あまり考えないで。

そうやって身の回りの人工物を見回してみると、素材の色、形、光の反射まで、部屋の中がゴチャゴチャと目に耳にうるさい。

石油製品の立体顔に、少女漫画風のデフォルメされたアイプリント、植毛された毛に布の衣服。
リカちゃん人形を愛する所以が、そこにはあるのかもしれない。


<今日のトリビア
西洋の黄色は、裏切り者のユダの服の色。