あのおばけはどこに行ったか

子供の頃に住んでた家の話。
ブラジルに移民したおじいさんが、最期に帰って来て息をひきとった家。
長く空き家になっていたところを、うちの両親が借り入れ、改装して住むようになった。
明治に建てられた古い日本家屋の屋根は苔むしていて、雨が降るたびにどこかしら雨漏りがした。
家全体が、だんだんきしんでいって、阪神大震災のあとにはトイレの滑り戸が滑らなくなった。
隣の家の倉との境目には、細長い通り道があった。
風が通り抜けるとき、不気味な人の声のような高音を立てるものだから、自分の中の設定では、それは「幽霊の声」だった。
洋ダンスの深い茶色の木目は、人の顔みたいに見えた。
早寝の老人ばかりの小さな集落で、夜に灯りをつけた場所なんかないものだから、家の中にも外にも、深い深い闇が溢れていた。
押し入れの奥に、トイレの穴に、魑魅魍魎が跋扈していた。
きっと、よいものも、そうでないものも、目や耳や肌のすぐ近くで、蠢いていた。

あいつら、どこに行ったんだろう。

台風襲来の雨音と轟音が反響する風呂で、ふと思う。

おばけがいなくなったのは、この世で一番怖いものが自分の心だと知ったあたりからだったような気がする。

自我は完璧な球体で、外界と相容れない存在だった。
その自我は肥大して、破裂して、外界を覆い尽くし、一体化し、
世界の中に自分の小さな分子、原子がちらばっている。
そんな感覚に陥ったまま。
自分が世界であり、世界が自分である。
(決して権力欲的な意味ではなく)

俯瞰だとか離人だとか、短期的に説明できる言葉もあるかもしれないけれど、長期的には、自身の哲学が次のフェーズに入っただけなのかな、とも思う。これがさらに進化・深化していきそうな予感もある。

かつて、おばけの片鱗は自分の心の内に嫌というほど発見したし、激しい気持ち、悪い気持ちのふきだまりが爆発することもあった。
そういったものを溜め込んでいると、やけに疲れた。
きっと自分は、抗わずに流す、という術を、処世術として学習し始めている。
波間に漂う帆のない小舟の如く、ぷかぷか浮かんで、流されて。
全力で抗えば溺れる。
自分の範囲で、できることをやるだけ。
流された先のものも、まだ見たいし。