ギエム

子守りから開放されて、ほっと一息。
子守りモードの時は、全身全力でアピールする存在と常に向き合っていて
なるほど冷静な判断力を失うな、と後からブログなどを眺めていて思う。

さて、高校時代からいつか見たいと思っていたシルヴィ・ギエムボレロを観た。

幕が開いて、舞台の上にポージングを付けたまま止まって青白く浮かび上がったダンサーたち。その神秘に触れた時、全身からため息が漏れる。

稚拙な表現になってしまうが、それは子どもの頃に憧れた世界で、オルゴールの中に、スノードームの中に、クリスマスの飾りの中にあった小宇宙だった。
バレエとは、すなわち、チャイコフスキークルミ割り人形であり白鳥の湖であり、白いチュチュであり、幼なじみのお母さんの持っていた、爪の剥がれそうに先っぽの硬いトウ・シューズであった。素材はサテン、その色は薄いサーモンピンクで、よそのうちのお母さんのブラジャー姿を思い浮かべた。自分の家でいつもくつろいでいる「母」とは違う、よそのお母さん。ピアノや応接間のある家に住んでいて、化粧台と水中花が似合う。母というより、大人の女性。ドキドキする。

それはまた、日東紅茶とブルボンのお菓子であり、レースのあしらわれた丸襟のシャツにエナメルのストラップシューズを履いた子どもであり、自分にとっては昭和の記憶だった。
どこにも存在しないヨーロッパの、時代もわからぬおとぎの話の世界が眼前に広がって、少しこそばゆい思いをする。

衣服のラインをなくした状態の人間を、こんなに一度に見ることはない。
温泉や銭湯で見る裸も、生活者のそれという感じでとても好ましいのだけれど、ストイックに鍛え上げられたダンサーの肉体は、揃ってかくも美しいものか。自分にない筋肉や、鋭角的な、あるいは優美な手や脚の動きを意識した。

一緒に踊っていたバレエ団の方々も素晴らしく贅沢だったが、ギエム独演の圧倒的なステージは、流石。
神がかっていて、生の舞台でこういうものが見たかったのだ、と方向性を強く刻み込む。
口当たりの良い砂糖細工ばかりじゃないんだ。表現に人生をかけた人がギリギリと心血を注いで、残った最後の一滴から何を感じるか知りたいんだ。
舞台が進むに連れて、そういうことを徐々に確認して行った。
台詞もなにもない世界は、ひとつひとつの動きを瞬間の記憶に留めておけなくて、肉体の軌跡だけが残像として残る。


後ろの席の男性は「シャーマニズムだ」と言っていた。
ロビーに出ると、「すごかったね」「キラキラしてたね」「これであと10年は仕事を頑張れるね」と女性連れが会話していた。
そういう、ライブ後の場の空気が変わって、ほんのり上気して暖かくなっている感じがとても好きだ。


ギエム、日本のことを好きでいてくれてありがとう。日本の惨事に心を傷めてくれてありがとう。
あれだけの存在に、応えられるような生き方をしたいと思った。